初出■2002年[平成14年]

紹介

[上巻]ニューヨークで、運転手から実力で大金持ちとなった伝説の男・東太郎の過去を、祐介は偶然知ることとなる。伯父の継子として大陸から引き上げてきた太郎の、隣家の恵まれた娘・よう子への思慕。その幼い恋が、その後何十年にもわたって、没落していくある一族を呪縛していくとは。まだ優雅な階級社会が残っていた昭和の軽井沢を舞台に、陰翳豊かに展開する、大ロマンの行方は。
[下巻]生涯の恋に破れ、陰惨なまなざしのままアメリカに渡った東太郎。再び日本に現れた時には大富豪となっていた彼の出現で、よう子の、そして三枝家の、絵のように美しく完結した平穏な日々が少しずつひずんで行く。その様を淡々と語る冨美子との邂逅も、祐介にとってはもはや運命だったような…。数十年にわたる想いが帰結する、悲劇の日。静かで深い感動が心を満たす超恋愛小説。

新潮社 . 2002年読売文学賞受賞

【感想】2007.11.13

まず、この大袈裟なタイトルは一体なんなんだろうか、と。
でも、読み始めるとそれは確かに本格的な小説だった。

字義通り、いまの日本の大半は「軽薄小説」なのではないか、と。
何を比べてそう言うかということはあるが、その内容の重厚さとか歴史的な重みから自ずと現れてくる雰囲気がこんなにも違うというのは、驚きだった。
もちろん、軽薄な小説と比べて何になるのか、という基本的な事には躓くけれども。

さて、いったい何が「本格小説」なんだろうか。
そう思って読み始めると、その大袈裟通りに「日本の近代文学の始まりとは?」みたいな場所に連れて行かれる。
大学の先生である語り手は、欧米の近代小説と比較しながら、アメリカに居て、日本のことをを考え続けている。
それは戦後にアメリカに渡った姉妹のお話でもあり、その姉妹の家族のアメリカ移住にまつわるお話でもある。
その辺りは前作の「私小説 from left to right」と同じ舞台をとっていて、途方に暮れている姉妹のことがせつなく描かれている。
それに加え、今回は両親と彼らが共同体として暮らしていた、日本の企業の社員たちの姿も描かれているし、両親の末路も悲しいほどに辛辣に描かれてもいる。
ただ、それらは本編である「本格小説」を描くための舞台装置であり、実際の主人公は単身渡米して、億万長者となった日本国籍の男性である。

それは、戦後。
軽井沢に別荘を持つ裕福な家庭に生まれた少女、よう子。
満州から流れてきたという、浮浪児同然の少年、太郎。
まだ階級の格差というものが生々しく生き残っていた時代の結ばれぬ恋愛を、彼らを分かつその死までを描いた文学的な大作だったのである。
「大作」という大時代的でもあり、映画的なキャッチコピーがとてもよく似合う純粋な恋愛小説というのが、「本格小説」の正体だったのである。

幼い頃からの出会いと、戦後の時のはやい流れとともに離れ離れになり、その後、よう子は幼馴染みと結婚をする。
太郎は渡米し、ビジネス的に大成功をおさめて、大金持ちとなってよう子の前に姿を現す。
そう、戦後日本を舞台にしたお伽噺しのようなストーリー。

つまり、読んでいるうちに作者の語り口からどうもこの小説にはお手本があって、どうやら英国の前時代に書かれた古い小説のようであることなんかも想像されてくる。
誰のどの作品なのかは自分にはわからないが、ある一族の興亡を描いた大袈裟で大時代的な家族小説のひとつなのだろう。

それにしてもこの、語り手であるためにとても抑えられているが、波乱万丈を絵に描いたような女中さんに待ち受けている果報もひどく嘘めいた成り行きにも関わらず、しっくりとなじんでしまうのが、大きな物語の中の一齣にすぎないからだとわかっていても、それを平気で読者に乗り越えさせてしまう水村美苗の筆力はたいしたものだと嬉しくも騙されてしまう。
その登場人物の心の深い処を実に追分の寂しい自然や東京のごみごみした情景と重ね合わせながら描いていく筆致には、読みながらも残りのページが薄くなるにつれてまだまだ終わって欲しくないというあの読書人の「憂鬱」がたち現れ抱きとめられ、久しぶりに充実した読書を味わえた。

普通はこうした「大袈裟な小説」はポストモダンとかなんとかいって、知的な茶々が入る半分白けた小説になってしまうのが今の常なのだが、それを見事にもう一度裏返すことに成功している珍しい小説。
その小説世界の構成は実に緻密に組み立てられていて、様々な意匠が隠れていたりすることも、著者の筆力の深さだ。
特に後半の押し隠してきた暗い情念が二人の奥底から、軽井沢の濃い霧のようにひたひたと物語を覆い尽くしていくのを、読者としては伝染病に罹ったように胸のつづまった処を侵されていくのを黙って耐えていくしかない。
ほんと、不思議に心を揺さぶられてしまう物語なのだ。

読後によくよく考えてみると、一生一人の女だけを本気で一途に愛し続けるという、超越的というか禁欲的というか、ハーレクィンのような物語という、返すがえすも辛くて切なくて怖い、「本格小説」なのであった。

羊男

物語千夜一夜【第百五夜】

関連リンク

inserted by FC2 system